萩焼専門店発祥の地 三輪清雅堂に御来店頂きました全国日本学士会理事 弁護士 和田誠一郎先生著「茶碗雑感」の記事が千里眼№140 2017に掲載されました。

萩焼専門店発祥の地 三輪清雅堂に御来店頂きました全国日本学士会理事 弁護士 和田誠一郎先生著「茶碗雑感」の記事が千里眼№140 2017に掲載されました。

萩焼専門店発祥の地 三輪清雅堂にて光悦茶碗特別鑑賞会好評開催中〔予約制〕

 

茶碗雑感(一)         

全国日本学士会理事  弁護士  和田誠一郎先生著

 

「茶の湯は日本の心」と言われ、世界的に誇る日本文化の一つであろう。茶の湯の歴史は古く、茶人や茶道具にまつわる逸話にも事欠かない。茶道を嗜む人も数多いと思われる。日本の各地には茶道具の博物館も多くある。従って、さぞかし茶道具の名品も数多い事であろう。ところで、国宝指定の美術工芸品は全部で八八五件とのことである。そうすると、「焼き物」については何件ぐらいあるのだろうか。実はわずかに十四件にすぎないそうである。しかも、「茶碗」となると八碗に限られる。さらに驚くことに、「国産」となると実は二碗だけなのである。そのうちの一碗は、美濃牟田洞窯で焼かれたと言われている、三井記念美術館の至宝である志野茶碗の名品「卯花墻」である。ただ、この名品の作者は不明である。唯一作者が判明している国宝は、本阿弥光悦の作と言われる銘「不二山」(サンリツ服部美術館蔵)である。

 

この名品の作者、本阿弥光悦(一五五八~一六三七)は、実に多彩な分野でそれぞれについて大きな業績を残した江戸初期というより日本を代表する文化人であり、日本のレオナルド・ダヴィンチとも称されている。ただ、実は光悦は生来の陶芸家ではない。彼は刀剣の鑑定や研磨・浄拭等を家業とする本阿弥家に生まれ、幼い頃から多くの工芸に触れられる環境に育ったようで、これがその後の彼の多分野の驚異的業績に繋がったのであろう。彼の業績は実に多彩な分野にわたる。

 

先ずは書である。彼の書は装飾性に富み、独自の書体で光悦流と言われ、「寛永の三筆」と称されている。さらに、漆芸においても才能をいかんなく発揮し、代表作「舟橋蒔絵硯箱」は、箱の全面に金粉を密にまき、波の地文に漆を盛り上げて金粉をまく薄肉高蒔絵という技法で描いた小舟を浮かべ、さらに厚い鉛の板の橋を掛け渡し、付猫という手法で波を描くという、実に多彩で豪華かつ優雅な作品である。これも国宝である(東京国立博物館蔵)。

 

さらに、彼は絵画においても新しい造形様式を展開させた。光悦は、四四歳の時一人の若手の絵師と出会った。その頃光悦は厳島神社の寺宝「平家納経」の修理をすることになり、その絵師を修理チームに加えた。そして、彼は見事に期待に応えた仕事をしたのである。彼は後に「風神雷神図屏風」など次々と傑作を生み出していく。すなわち、彼とは俵屋宗達のことである。宗達は「若い頃、光悦翁と出会わなければ、私の人生は無駄なものに終わっていただろう」と回想している。さらに、彼は尾形光琳に絵の手ほどきをするなど大きな影響を与え、琳派の先駆者となった。

 

又、彼は角倉素庵らとともに豪華なひらがな活字本の謡曲「嵯峨本」を刊行した。光悦が版下を書き、本文・表紙には色紙を用い、雲母(きらら)の模様を出している。日本の印刷文化史上最も美術的な版本と賞されている。そして、茶の湯である。光悦は、茶の湯を天下の宗匠古田織部から習った。そして小堀遠州、千宗旦等と交流し、茶道を極めていった。このように実に多彩な分野で、かつ抜きんでた活躍をした光悦は、やがて武士・公家・僧など広範な友人を持つこととなり、後水尾天皇の庇護までも受けるようになっていった。ちなみに、あの宮本武蔵も吉岡一門との決闘前に後述の光悦村で光悦と会ったと言われている。

 

時の将軍徳川家康は、光悦が五八歳の元和元年(一六一五年)に京都の北西部にある鷹峯に広大な土地を与えた。それは、家康が周囲の有力者に大きな影響力を持っている光悦を京都の中心部から遠ざけようとした為とも言われている。しかし、これは光悦にとっては好都合なことだった。俗世から離れ好きな芸に没頭できる場所が手に入ったのである。鷹峯の地に移住した光悦は、その地に多くの陶工・画家・蒔絵師など特に彼が信仰していた法華宗徒仲間を集めた。その中にはあの尾形光琳の祖父もいた。やがて風流をたしなむ豪商らもここに移り住むようになり、「光悦村」が形成されていった。村には五六もの家屋敷が軒を連ねていたという。そして、彼はここでは今日でいうプロデューサー的な役割を大いに果たし、正に日本最初のアート・ディレクターであった。そして、光悦自身も「光悦村」で次々と充実した名作を生みだしていった。

 

彼が後年、特に力を注いだのが陶芸であった。彼は京屈指の陶芸家である楽家との交流を深め、特に二代目吉左衛門(常慶)と三代目道入から陶芸の技術を習得していった。彼のヘラ使いは唯一無二と言われる。その感性が見事に表現された茶碗がある。それが先の国宝「不二山」である。「不二山」は陶土を手でこね上げていく「手捏ね」で作られた。どっしりと力強い底部の立ち上がりが屹立し、焼成の偶然から白い釉薬が下半分で黒く炭化し、上部の白釉が冠雪した山を思わせる。

 

制作者が自ら箱書をしたものを共箱というが、これも光悦が最初に始めたものである。ところで、この「不二山」は作成の経緯からすると、楽家で焼かれた楽茶碗であることに疑いはないようである。ところが、これに異を唱える人物がいるのである。その人物とは萩市の萩焼専門店老舗三輪清雅堂四代目当主の三輪正知氏である。三輪氏の話については次回に書くこととする。(続く) 〔千里眼№140 2017より〕