萩焼の歴史

朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で萩焼の開祖・李勺光(高麗焼物細工累代家伝の秘法を身につけていた人物)を豊臣秀吉の命によって招致(文禄2年)。その後、陶工である李敬を毛利輝元の命により日本に連れて帰ります(慶長2年)。関ヶ原の戦いに敗れた広島(安芸の国)の毛利輝元は、徳川家康より周防・長門二カ国を受領し、山口県萩市に萩城を築きます(慶長9年)。この年、萩市松本に御用焼物所が開窯され「萩焼」が始まります。その後、李勺光の子である山村新兵衛は、毛利輝元より「作之允(さくのじょう)」に任ぜられ、李敬も初代萩藩主・毛利秀就より「高麗左衛門」に任ぜられます(寛永2年)。この年、長州毛利家の藩政を握っていた毛利秀元は、徳川家光の御伽衆(おとぎしゅう)となります。江戸時代初期にみられる織部様式の萩焼は、秀元の影響とされます。松江重頼著「毛吹草」に長門の名物として萩焼物の記載があり、「萩焼」が世に知られていたことがわかります(寛永15年)。大名茶人でもあった秀元は、徳川家光の命を受け、品川御殿の近くに新亭を設けて大茶会を開き成功させます(寛永17年)。その後、李勺光の子・山村新兵衛の子である平四朗は、「三ノ瀬焼物所惣都合」を命ぜられて弟子を率いて深川三ノ瀬に移住。ここに三ノ瀬焼物所が開窯します(明暦3年)。

萩焼

萩焼の素材と焼成技術

萩焼の主原土は、白色をした大道土(だいどうつち)であります。山口県埋蔵文化財調査報告書第44集によりますと、萩焼で最も古い時代(江戸時代初期)に焼かれた坂一号窯の発掘調査によると大道土が使用された茶碗が確認されております。この白土は山口県防府市台道や山口市付近から採取される砂礫の多い蛙目粘土であります。そのほか、萩市の日本海の沖合いに浮かぶ見島で採取される鉄分の多い赤土や阿武郡福栄村福川金峰(みたけ)で採取される白色をしたカオリンの一種である金峰土、萩市の窯所周辺で採取される地土が使用されています。萩焼の窯(坂一号窯)は朝鮮式の連房式登り窯で大量生産でき火が走りやすい構造になっており、焼き方により様々な色調が狙えるといったいわゆる窯変(ようへん)が魅力的です。江戸時代初期にみられます傾向としましては、高麗焼の茶碗の写し物が多くみられ、その一方で、坂家に伝わる古萩茶碗「張良」(ちょうりょう)のような芸術的な造形美を観ることも出来ます。実は現在に至るまで、光悦の時代に作られ焼かれた坂一号窯のモノハラは発見されておらず残念ながらこの窯で焼かれた萩焼の詳細は不明です。朝鮮半島出身の陶工たちは、高麗焼の焼成技術を生かし、中性還元焼成でもって焼いておりました。窯炊きは、天候や季節によって影響を受けやすく、また薪の投入のスピードによって窯の中に入る空気の量に違いが生じ、酸化焼成になったり還元焼成になったりします。焼成時間は一日程度で火入れ式には「トウエビス」と呪文を唱え窯炊きの成功を祈ります。

参考:萩焼400年展ー伝統と革新(朝日新聞社文化企画局西部企画編集部・発行)