
「萩色の旅」~萩に来て新しい萩の風を感じてみませんか?新説・高麗焼「三島茶碗」の語源は、三島(萩市見島)であり、「山陰の小京都(萩市)」は茶の湯(神仙世界)の理想郷」だった!!令和7年12月12日(金)地元情報新聞「スポット山陰」一面で紹介されました。

武将たちは、茶会(神仙世界)で抹茶(仙薬)を一服する際、「井戸茶碗」の中に龍が天に飛翔するのを想像し「井戸」と呼んだのだろう。「三島茶碗」の語源は、その昔、見島は、三つの島があるように見えるので「三島」と呼ばれていたとされることから、仙人が住む三神島の象徴─と考えられていたのではないだろうか。その三島の東方・須佐神山から「井戸茶碗」(黄帝の黄龍を表現)の呼称が誕生し、三島の西方・朝鮮半島南部熊川から「熊川茶碗」(西王母の鳳凰を表現)の呼称が誕生。すなわち、交易ルートであった三島を拠点に「井戸」「三島」「熊川」「金海」などの高麗茶碗の呼称が誕生。徳川時代を迎え、「井戸茶碗」の継承者・李勺光、李敬は、豊臣方の毛利氏によって、密かに須佐唐津から萩唐人山に移り開窯。さらに李勺光は萩唐人山から毛利秀元の長府に移り松風山で開窯。この3箇所を繋ぎ、神山から千里眼の如く見通せば、毛利氏によって隠された萩焼420年の真実(ルーツ)が分かる。李勺光の血筋は途絶えたが、今も、「一萩(井戸)二樂三唐津」と称賛されている萩焼について深く知りたい方は、萩焼専門店発祥の地 三輪清雅堂が解説します。
令和7年12月12日(金)地元情報新聞「スポット山陰」一面で紹介されました。