萩焼人間国宝 三輪壽雪〔十一代三輪休雪〕先生 鬼萩割高台茶碗と萩焼専門店発祥の地 三輪清雅堂
高杉晋作
現在、「一萩二樂三唐津」と称される優作茶碗
あの”長州尊皇攘夷派”も愛用した萩焼茶碗。なぜ萩焼茶碗は、「一萩」と言えるのだろうか。それは、「井戸茶碗」と「光悦茶碗」のほとんどが“長門国エリア”〔大内氏~毛利氏の時代〕で焼かれたとみられるからである!!
萩焼専門店発祥の地 おちゃわんや 三輪清雅堂では、萩に来て観光ガイドをされます旅行業界の皆様に、質の高い萩の歴史や文化の最新情報をお伝えしております。
お問い合わせ 萩焼専門店発祥の地 三輪清雅堂 https://hagi-miwa.com/
0838・22・0895 090・8360・7843
萩の吉田にある萩焼専門店発祥の地 三輪清雅堂〔萩焼の三輪塾〕
「萩色の旅」~萩に来て新しい萩の風を感じてみませんか?「萩焼とは何か」「萩焼茶碗の本質的価値とは」、世界に誇れる萩焼茶碗芸術の世界に触れてみませんか。萩焼の世界を正しく知ると、あなたも萩焼の専門家になれます。吉田にある萩焼専門店発祥の地 三輪清雅堂 帰空庵は、吉田松陰先生を敬慕し、萩焼の道場「萩焼の三輪塾」として萩焼茶碗芸術の魅力を発信しています。〔予約制・無料・所要時間約30分~1時間程度〕!!
「萩色の旅」~萩に来て新しい萩の風を感じてみませんか?これまで、あなたが信じてきた「萩焼」の歴史が変わります。理路整然に説かれたこの論理に触れた瞬間、あなたの長年に渡る萩焼の概念が根底から覆る衝撃を覚えることでしょう!!
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光悦茶碗研究の第一人者 三輪正知氏
令和5年(2023年)12月15日 金曜日 地元の情報新聞「すぽっと山陰」の一面に以下の内容で紹介されました。
萩焼420年の歴史に衝撃の新説~今ここに通説が覆る~
『萩焼の開祖=李勺光・李敬は須佐唐津から移って来た!!』
萩焼の起源は通説によると、豊臣秀吉の唐入り(朝鮮出兵)の際、秀吉の命によって毛利輝元が“技芸ある陶工”を日本に連れ帰ったことに遡るとされているが、この論拠となる史料が、「毛利家文書」にある文禄元年11月29日の記録である。「熊被仰出候、今度朝鮮人捕置候内ニ、細工仕候もの、ぬいくわん(縫官)、手之聞候女於在之者、可有進上之候、可被召仕御用候、家中をも改、可相越候也 十一月廿九日 秀吉朱印 安藝宰相とのへ」おそらく、この時「細工仕候もの」という言葉に“陶工も含まれている”と考えた結果ではないかと思うが、秀吉の時代、大奥の原型となった御奥という制度があり、そこには多くの美女が召使いとして雇われていたことから、女子の手仕事である「御細工物」を指していると考える方が自然である。
元東京帝国大学(現東京大学)史料編纂官・渡辺世祐氏(日本史学者)監修「毛利輝元卿伝」には、この文禄元年11月29日の記録について「秀吉は二十九日に卿に、今度生捕った朝鮮人の中に細工・裁縫を善くする女あらば召使ひたいから、家中を改めて日本に送致せられんことを請うた」とある。つまり、秀吉は輝元に“奇芸ある朝鮮人陶工を送致せよ”とは命じていなかったことになる。このことは以前から研究者の間で指摘されていることである。
さらに、「草創期の萩焼窯所・坂一号窯から発掘された陶片」と「大内氏保護の下、中国人陶工によって室町時代から始まったとされる須佐唐津焼と肥前唐津焼の窯所で発掘された陶片」は見分けがつかない程、類似していることが研究者による発掘調査で確認されている。須佐唐津窯所・第三号窯の築窯様式が草創期のものと似ていることから、第三号窯の築窯時期は萩焼開窯以前と考えられている。
こうした発掘調査結果から、光悦茶碗研究の第一人者 三輪正知氏は三つの窯所(萩・須佐唐津・肥前唐津)で使用されていた“藁灰釉”の陶技に注目している。ここで大変興味深いことは、以前“藁灰釉”の使用について三輪氏の恩師の一人だった元東京国立博物館名誉館員・林屋晴三(陶磁研究者)は「“藁灰釉”の使用は、当時日本に請来されていた高麗物にはまったく見出すことが出来ない」と言及しており、近年においては、萩焼研究者も「“藁灰釉”は輝元が出陣した朝鮮半島南部では、その使用例が見られない」と話していることから、朝鮮人陶工とは別系統の技術の可能性が考えられ、「“藁灰釉”の陶技のルーツが中国にあった」という見解が有力視されている。当時、肥前唐津の“藁灰釉”の陶技が、“陶工の移動”によって周辺にある高取・上野に伝播したことが窺えるように、坂一号窯から発掘された陶片が、須佐唐津窯で発掘された陶片と極めて酷似しているということは、須佐唐津から萩の唐人山に陶工がやって来たことを裏付けている。これを踏まえて三輪氏は、著書の中で、『萩焼のルーツは須佐唐津に追跡でき、萩焼の開祖=李勺光・李敬は須佐唐津から移って来た!!』と発表している。
ここで疑問なのが萩焼の起源説「萩焼は秀吉の命によって輝元が陶工を日本に連れ帰ったことにより始まる」とされる史料「譜録 坂助八忠逵、譜録 山村源次郎光長」が、萩焼開窯から約160年も経った明和年間に初めて作成されていることである。なぜ、後の時代にこのような萩焼の歴史が作られたのであろうか。歴史を遡ると江戸時代中期には上流階級だけでなく庶民の間でも茶の湯が広まっていた。ここで毛利は萩焼を本質を高め、更なる需要を増大させるために歴史を語る必要があったのではないかと三輪氏は考えている。「光悦茶碗」と通説では朝鮮半島で焼かれたとされる「井戸茶碗」のほとんどが“長門国エリア”で焼かれたとみている三輪氏にとって、和物茶碗の格付けは「一萩二樂三唐津」となる!!
「光悦茶碗謎解明」(初版500冊限定)好評発売中。
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令和6年(2024)5月31日(金)地元情報新聞「スポット山陰」一面で紹介されました。
「萩色の旅」~萩に来て新しい萩の風を感じてみませんか?吉田松陰先生が死の間際に「矩之」と改名したのは何故か~天皇を守護する「近衛騎兵」「近衛歩兵」を先祖に持つ三輪正知氏がその謎を解明し新説を発表!!令和6年(2024)5月31日(金)地元情報新聞「スポット山陰」一面で紹介されました。萩焼専門店発祥の地 三輪清雅堂では、松陰先生遺愛の萩焼茶碗一服鑑賞会開催中。松陰先生が敷島の大和の国(日本国)の為に心を砕かれ、「矩之」改名に至るまでの経緯が窺える松陰先生直筆の言葉も合わせて公開中〔予約制・期間無期限・無料〕 !!
松陰先生遺愛の萩焼茶碗
松陰先生直筆の言葉
吉田松陰先生が死の間際に「矩之」と改名したのは何故か
天皇を守護する「近衛騎兵」「近衛歩兵」を先祖に持つ三輪正知氏がその謎を解明し新説を発表!!
松陰先生は死の間際に「矩方」から「矩之」へと改名している。私はこの点に松陰先生の迸(ほとばし)る執念を覚える。 そもそも「矩之」という名は吉田家の3代目の名であり、その人物は明智氏の一族である妻木(つまき)家から養子に入っている。 ご存知のように明智光秀は織田信長に謀反を働き、打ち取られたことは言うまでもない。 一方、吉田家の系図をたどると「松野平介(一忠)」という人物に至る。この人物は信長からも一目置かれた重臣である。 皮肉な事に光秀と平介の二人は、『本能寺の変』では、それぞれ謀反と忠義という相対する立場にあったのであるが、奇縁な事に吉田家の3代目「矩之」という名で、この二つの系図が交わっているのである。 松陰先生が敢えて、この諱を死の間際に記したのは、天皇に忠義を尽くす為に幕府に対し造反した己の姿をこの名を通して二人の姿に重ね合わせたのではないかと私は察する。 松陰先生が武士の鏡と敬慕した人物は、尊皇思想家、高山彦九郎のことであり、その彦九郎の「狂」の精神を受け継いだ松陰先生は彦九郎の諡(おくりな)・「松陰以白居士」に因み自らを松陰と号した。
松陰神社崇敬会会員 三輪正知(光悦茶碗研究家)
萩焼専門店発祥の地 三輪清雅堂では、松陰先生遺愛の萩焼茶碗一服鑑賞会開催中。松陰先生が敷島の大和の国(日本国)の為に心を砕かれ、「矩之」改名に至るまでの経緯が窺える松陰先生直筆の言葉も合わせて公開中〔予約制・期間無期限・無料〕
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「萩色の旅」~萩に来て新しい萩の風を感じてみませんか?高杉晋作~激動の恋~ 大好評につき昨年に続き令和6年(2024)4月12日(金)地元情報新聞「スポット山陰」一面で紹介されました。萩焼専門店発祥の地 三輪清雅堂では、高杉晋作が恋人「おうの」に贈ったとみられる茶碗で一服鑑賞会開催中(予約制・期間無期限・無料)!!
高杉晋作が剃髪し東行と号した隠遁生活の地
高杉晋作
萩焼専門店発祥の地 三輪清雅堂では、高杉晋作が恋人「おうの」に贈ったとみられる茶碗で一服鑑賞会を開催中(予約制・期間無期限・無料)!!※お抹茶または甘酒をご用意しております。
東行「当てにした客はまだ来じ郭公(ホトトギス)」
高杉晋作~激動の恋~
東行「当てにした客はまだ来じ郭公(ホトトギス)」
高杉晋作直筆書画(古筆学研究の第一人者 故・小松茂美先生鑑定)
晋作は、自分の帰りを待つ「おうの」の事を想い筆を執ったのだろう。
「来ると約束した客はまだ来ない」と川柳一句を添え、芸者風の女性の後ろ姿や杯がユニークに描かれている。
この書画には下記の写真と同様の馬上杯形茶碗が描かれている。
古はぎ焼 馬上用(馬上杯形)茶碗
箱書には高麗左衛門作 銘「まつむし」 竹屋題簽(たけやだいせん)とある。
高麗左衛門とは松下村塾と交流のあったとされる坂窯と考えられ、銘「まつむし」とは「おうの」を指していると思われる。
晩年、竹の絵ばかり書いて過ごした部屋を竹を意味する「緑筠堂(りょくいんどう)」と名付け、さらに「些々(ささ)という号も名乗っている晋作は、次第に悪化していく体調から竹の生命力に魅了されて茶杓を作った。その際に「竹屋」と名乗ったのではないか。
晋作が「おうの」に贈ったとされる、この自作の茶杓 銘「梅処(ばいしょ)」は現在も東行記念館に伝わっている。
松(松虫)、竹(竹屋)、梅(梅処)を表すこの三点(書画・茶碗・茶杓)の史料には長寿を願う晋作の心情が窺える。
「おうの」は晋作の死後、尼になり「梅処尼」と名乗った。
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