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光悦茶碗研究の第一人者 三輪正知氏 萩焼420年の歴史に衝撃の新説~今ここに通説が覆る~『萩焼の開祖=李勺光・李敬は須佐唐津から移って来た!!』

令和5年(2023年)12月15日 金曜日 地元の情報新聞「すぽっと山陰」の一面に以下の内容で紹介されました。

光悦茶碗研究の第一人者 三輪正知氏

萩焼420年の歴史に衝撃の新説~今ここに通説が覆る~

『萩焼の開祖=李勺光・李敬は須佐唐津から移って来た!!』

萩焼の起源は通説によると、豊臣秀吉の唐入り(朝鮮出兵)の際、秀吉の命によって毛利輝元が“技芸ある陶工”を日本に連れ帰ったことに遡るとされているが、この論拠となる史料が、「毛利家文書」にある文禄元年11月29日の記録である。「熊被仰出候、今度朝鮮人捕置候内ニ、細工仕候もの、ぬいくわん(縫官)、手之聞候女於在之者、可有進上之候、可被召仕御用候、家中をも改、可相越候也 十一月廿九日 秀吉朱印 安藝宰相とのへ」おそらく、この時「細工仕候もの」という言葉に“陶工も含まれている”と考えた結果ではないかと思うが、秀吉の時代、大奥の原型となった御奥という制度があり、そこには多くの美女が召使いとして雇われていたことから、女子の手仕事である「御細工物」を指していると考える方が自然である。

元東京帝国大学(現東京大学)史料編纂官・渡辺世祐氏(日本史学者)監修「毛利輝元卿伝」には、この文禄元年11月29日の記録について「秀吉は二十九日に卿に、今度生捕った朝鮮人の中に細工・裁縫を善くする女あらば召使ひたいから、家中を改めて日本に送致せられんことを請うた」とある。つまり、秀吉は輝元に“奇芸ある朝鮮人陶工を送致せよ”とは命じていなかったことになる。このことは以前から研究者の間で指摘されていることである。

さらに、「草創期の萩焼窯所・坂一号窯から発掘された陶片」と「大内氏保護の下、中国人陶工によって室町時代から始まったとされる須佐唐津焼と肥前唐津焼の窯所で発掘された陶片」は見分けがつかない程、類似していることが研究者による発掘調査で確認されている。須佐唐津窯所・第三号窯の築窯様式が草創期のものと似ていることから、第三号窯の築窯時期は萩焼開窯以前と考えられている。

こうした発掘調査結果から、光悦茶碗研究の第一人者 三輪正知氏は三つの窯所(萩・須佐唐津・肥前唐津)で使用されていた“藁灰釉”の陶技に注目している。ここで大変興味深いことは、以前“藁灰釉”の使用について三輪氏の恩師の一人だった元東京国立博物館名誉館員・林屋晴三(陶磁研究者)は「“藁灰釉”の使用は、当時日本に請来されていた高麗物にはまったく見出すことが出来ない」と言及しており、近年においては、萩焼研究者も「“藁灰釉”は輝元が出陣した朝鮮半島南部では、その使用例が見られない」と話していることから、朝鮮人陶工とは別系統の技術の可能性が考えられ、「“藁灰釉”の陶技のルーツが中国にあった」という見解が有力視されている。当時、肥前唐津の“藁灰釉”の陶技が、“陶工の移動”によって周辺にある高取・上野に伝播したことが窺えるように、坂一号窯から発掘された陶片が、須佐唐津窯で発掘された陶片と極めて酷似しているということは、須佐唐津から萩の唐人山に陶工がやって来たことを裏付けている。これを踏まえて三輪氏は、著書の中で、『萩焼のルーツは須佐唐津に追跡でき、萩焼の開祖=李勺光・李敬は須佐唐津から移って来た!!』と発表している。

ここで疑問なのが萩焼の起源説「萩焼は秀吉の命によって輝元が陶工を日本に連れ帰ったことにより始まる」とされる史料「譜録 坂助八忠逵、譜録 山村源次郎光長」が、萩焼開窯から約160年も経った明和年間に初めて作成されていることである。なぜ、後の時代にこのような萩焼の歴史が作られたのであろうか。歴史を遡ると江戸時代中期には上流階級だけでなく庶民の間でも茶の湯が広まっていた。ここで毛利は萩焼を本質を高め、更なる需要を増大させるために歴史を語る必要があったのではないかと三輪氏は考えている。「光悦茶碗」と通説では朝鮮半島で焼かれたとされる「井戸茶碗」のほとんどが“長門国エリア”で焼かれたとみている三輪氏にとって、和物茶碗の格付けは「一萩二樂三唐津」となる!!

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