光悦ファン、萩焼ファンも吃驚!本阿弥光悦が「萩茶碗」(萩光悦)を作陶した事を窺わせる史料が次々と発見されました♪

光悦ファン、萩焼ファンも吃驚!本阿弥光悦が「萩茶碗」(萩光悦)を作陶した事を窺わせる史料が次々と発見されました♪

 

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江戸時代前期に本阿弥光悦が作陶した萩焼を「萩光悦」と云います。世に語り継がれております幻の萩焼の事です。田内梅軒が著した江戸時代の陶磁器の解説書「陶器考」(写真下)には、はっきりと「萩光悦」を見ることが出来ると記載されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初期の萩焼、光悦の手に 山口で文書みつかる

草創期の萩焼が、長州藩主の毛利家から本阿弥光悦(一五五八~一六三七)に渡っていたことを示す江戸時代初期の史料が山口県文書館(山口市)で見つかった。書や陶・漆器に通じ当時随一の芸術家だった光悦。萩焼との結び付きは明らかではなく、「一流の目利きだった光悦の評価がほしくて毛利側が贈った」「光悦が一目見たいと希望して取り寄せた」と関係者の間で話題になっている。文書館の吉積久年副館長が、毛利家の蔵の管理を記録した「慶長元和頃物品受渡受取控」から発見。慶長十九(一六一四)年九月七日に「本阿弥家に松本焼の茶わん三つを納めるのに使うきり箱に詰める半紙五帖を蔵から出した」旨が記されている。その後、茶の湯に欠かせない「茶陶」となる萩焼だが、当時は朝鮮半島の陶工に開窯させて十年前後。江戸末期まで松本焼や深川焼と呼ばれていた。県立萩美術館・浦上記念館の石崎泰之学芸課長は「萩焼が茶の湯の美意識にかなうほど洗練されているか批評してほしかったのではないか」と指摘。一方、岐阜県現代陶芸美術館の榎本徹館長は「高麗茶わんが貴重だった日本に朝鮮半島の陶工が来たのは当時の大事件。その陶工が焼いた茶わんの真価を光悦が見たかったのでは」とみる。また榎本徹館長は、藩政を握っていた毛利秀元と光悦の茶の湯の師匠がいずれも古田織部(重然、一五四四~一六一五)だったことに着目。「織部を通じて紹介されたのではないか」と推測する。光悦と萩焼の関係を研究する萩市の三輪正知さんは「これで光悦が萩焼づくりにかかわった可能性が高まった」と文書を評価している。

初期の萩焼、光悦の手に 山口で文書みつかる(2008年年7月13日 木曜日 共同通信)