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明治維新150年 龍馬の筆入れ「萩焼茶碗」確認!!

明治維新150年 龍馬の筆入れ「萩焼茶碗」確認!!

明治維新150年を記念して2005年、「龍馬の筆入れ茶碗」確認の記事をご紹介いたします。

萩に来て歴史のロマンを感じてみませんか。

 

2005年(平成17年)9月28日(水曜日) 毎日新聞

「龍馬の筆入れ茶わん」確認

萩訪れ直筆残す

松陰しのび絵を描く 旧家・斉藤さん祖父が入手

幕末の激動期に、土佐藩の志士・坂本竜馬が長州藩にある現在の萩市を訪れ、吉田松陰をしのんで絵を描いた萩焼「龍馬の筆入れ茶わん」を残していることが分かった。竜馬は直後に脱藩、薩長連合を画策するなど縦横無尽の活躍をする。竜馬が萩を訪れたのは1回のみで、「萩を訪れたことが竜馬の運命を変えたのでは」と関係者はみている。

「龍馬の筆入れ茶わん」は市内の旧家、斉藤兼太郎さん(71)方に伝わり、維新前後に斉藤さんの祖父が入手したという。平茶わんで、土や焼き具合から、文久年間(1861~64年)に長州藩の御用窯・八、九代の坂高麗左衛門窯で焼かれたとみられている。

茶わんの外側には、萩城を望む菊が浜と松林が描かれ、そばに「龍馬」の名前が書かれている。さらに竜馬とは別人の筆で萩城のあった指月山のふもとと、連なる峰々が描かれ「豊嶺」「雪鶴」「玉枝(地名・現玉江地区)」の文字がある。内側には、指月山の山頂と空を飛ぶ鶴が一羽描かれている。

長州藩志士、久坂玄瑞の日記「江月斎日乗」によると、竜馬は文久2年1月14日、土佐の武市半平太(瑞山)の手紙を持って萩の久坂を訪れた。竜馬は10日間、萩に滞在しこの間、久坂のほか松陰の肖像画を描いた松浦松洞、前原一誠ら多くの志士と会い、倒幕論を交わしたとみられる。

市内の松陰研究家、三輪正知さんによると「松陰の菩提寺・泉福寺は菊が浜の近くで、このあたりから見た景色が『龍馬の筆入り茶わん』の構図とぴったりで、当時の坂窯で焼かれたもの」という。また「龍馬」のサインについても、幕末維新史を研究している京都・霊山歴史館の木村幸比古学芸課長は「他の史料と比較検討して、龍馬の直筆に間違いない」としている。

「鶴」について、三輪さんは筆遣いから松浦松洞が描いたとみており「日本書紀などにヤマトタケルは死んで白鳥になった、などの英雄伝説がある。国のために死んだ松陰を鶴に見立てたのだろう」と話している。

竜馬は、久坂から武市へあてた「長州藩、土佐藩ともに滅亡しても改革のため決起しよう」との過激な返書を持って帰国する。この2カ月後、竜馬は脱藩した。松浦松洞は竜馬と別れた後、藩の重役暗殺未遂事件に加担し、責任をとって自刃する。

三輪さんは「竜馬は28歳、松浦は26歳。ともに激動期を生きた若者だが、特に竜馬の運命が萩で大きく変わった。茶わんに筆を入れたのは、松陰をしのぶとともに竜馬の決意の表れでもあったのでしょう」と話している。【浜野真吾】