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田内梅軒が著した江戸時代の陶磁器の解説書
田内梅軒が著した江戸時代の陶磁器の解説書。
田内梅軒が著した江戸時代の陶磁器の解説書
田内梅軒が著した江戸時代の陶磁器の解説書。
こちらは田内梅軒が著した江戸時代の陶磁器の解説書。
本阿弥光悦が作陶した作品の中には、はっきりと「萩光悦」を見ることが出来ると記載されています。
よって「萩光悦」(光悦が作陶した萩焼)の存在は確認されており江戸時代には定説となっておりました。
 萩光悦
山口県文書館所蔵
 萩光悦
山口県文書館所蔵
これは、慶長十九年、松本茶碗三つが本阿弥家へ納められるにあたり、桐箱に収納するために使われる詰め紙、半紙五帖の出納があったことを示す史料であります。

参考文献【山口県地方史研究 第96号 近世萩焼に関する史料 吉積久年著 山口県地方史学会編集・発行】
これはまさしく、本阿弥光悦が「萩茶碗」を作っていたことを窺わせる重要な史料であります。このたびの萩焼に関する史料は、これまで承知されていないもので、江戸時代の初期のものとしては、大変貴重でもありまた、法華経の精神を表現した幻の萩茶碗「萩光悦」の存在を世に問うことが出来るものと考えております。

2008年(平成20年)07月13日 木曜日 共同通信

初期の萩焼、光悦の手に 山口で文書みつかる

 萩光悦
 萩光悦

草創期の萩焼が、長州藩主の毛利家から本阿弥光悦(一五五八ー一六三七)に渡っていたことを示す江戸時代初期の史料が山口県文書館(山口市)で見つかった。書や陶・漆器に通じ当時随一の芸術家だった光悦。萩焼との結び付きは明らかではなく、「一流の目利きだった光悦の評価がほしくて毛利側が贈った」「光悦が一目見たいと希望して取り寄せた」と関係者の間で話題になっている。文書館の吉積久年副館長が、毛利家の蔵の管理を記録した「慶長元和頃物品受渡受取控」から発見。慶長十九(一六一四)年九月七日に「本阿弥家に松本焼の茶わん三つを納めるのに使うきり箱に詰める半紙五帖を蔵から出した」旨が記されている。その後、茶の湯に欠かせない「茶陶」となる萩焼だが、当時は朝鮮半島の陶工に開窯させて十年前後。江戸末期まで松本焼や深川焼と呼ばれていた。県立萩美術館・浦上記念館の石崎泰之学芸課長は「萩焼が茶の湯の美意識にかなうほど洗練されているか批評してほしかったのではないか」と指摘。一方、岐阜県現代陶芸美術館の榎本徹館長は「高麗茶わんが貴重だった日本に朝鮮半島の陶工が来たのは当時の大事件。その陶工が焼いた茶わんの真価を光悦が見たかったのでは」とみる。また榎本徹館長は、藩政を握っていた毛利秀元と光悦の茶の湯の師匠がいずれも古田織部(重然、一五四四ー一六一五)だったことに着目。「織部を通じて紹介されたのではないか」と推測する。光悦と萩焼の関係を研究する萩市の三輪正知さんは「これで光悦が萩焼づくりにかかわった可能性が高まった」と文書を評価している。

世界に誇れる萩焼芸術〜日本陶芸史上最も精神的崇高なる萩茶碗『萩光悦』誕生の歴史

世界の思想・哲学との融合

世界の思想・哲学がガンダーラに集結時に、茶の湯に関係の深い仏教と弥勒信仰とが同等に広まります。その二教はシルクロードを通り中国(道教・儒教)と共に朝鮮半島を経由し日本(上流階級、僧、武士、町衆)に伝わり、世界の思想・哲学が融合します。そうして誕生したのが日本の伝統文化の茶の湯です。日本民族が芸術まで高めた茶の湯とは、永遠の生命を覚知するためのものでした。そして、日本民族にとって茶碗とは大自然の象徴であります緑色の茶を服する際に口にするもので、悟りの境地(自心に目覚めること)を求めるために用いられた最も崇高な焼物だったのでした。

【1】喫茶の風習

中国(唐時代)では茶を飲む喫茶の流行により焼物も盛んに作られ焼かれていました。中国の喫茶は健康のための薬用、いわゆる養生の仙薬・長寿の妙術として、また覚醒作用による精神の安定のためのものでした。そんな中、中国(唐〜宋時代)から日本の僧が中国から茶の実を持ち帰り、日本に喫茶の風習がしだいに広まっていきます。同時に日本には宋との貿易により中国の陶磁器が大量に輸入されていきます。

【2】焼物技術の導入

日本では中国の陶磁器文化の憧れによって中国に渡り焼物を学ぶ者が現れ、国内でも釉薬を用いた焼物も作られ焼かれ始めます。これにより日本の焼物が無釉から有釉へと進化を加速していきます。中国(明時代)、韓国(李朝時代)になった頃、日本(安土桃山〜江戸時代時代初期)では日本民族が茶を服するための色彩鮮やかな「茶碗」という芸術の華が一斉に開きます。日本民族は、最初は中国伝来の唐物などの名品を珍重していましたが、しだいに高麗焼の人気が高まり、さらに中国や朝鮮半島から最新の焼物技術(連房式登り窯)が導入され日本独自の美意識(不完全調和の美)による焼物を自国でも焼き始めます。そうした中、日本の山口県萩市で誕生した焼物が松本焼で、高麗焼の憧れにより日本独自の焼物『萩焼』が誕生するのでした。

【3】日本陶芸史上最も精神的崇高なる萩茶碗『萩光悦』

世界の思想・哲学がガンダーラに集結時に、仏教と弥勒信仰とが同等に広まり中国、韓国、日本へと伝わることによって、日本が世界に誇れる芸術が誕生しました。その東洋随一の芸術作品が、東洋(日本)のレオナルド・ダ・ヴィンチと称される偉大な大芸術家・本阿弥光悦が作陶した萩茶碗『萩光悦』であります。光悦は弥勒のやさしさを七福神(布袋)に投影しました。現在、法華経の精神を表現した『萩光悦』は日本陶芸史上最も精神的崇高なる萩焼芸術として国内外の研究者に注目されています。



萩焼について

【1】萩焼の歴史

朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で萩焼の開祖・李勺光(高麗焼物細工累代家伝の秘法を身につけていた人物)が豊臣秀吉の命によって招致(文禄2年)。その後、陶工である李敬が毛利輝元の命により日本に連れて帰ります(慶長2年)。関ヶ原の戦いに敗れた広島(安芸の国)の毛利輝元は、徳川家康より周防・長門二カ国を受領し、山口県萩市に萩城を築きます(慶長9年)。この年、萩市松本に御用焼物所が開窯し「萩焼」が始まります。そして、萩城が完成(慶長13年)。長州毛利家(萩藩)は、毛利秀元と同じ織部門下の本阿弥光悦(京都の上層町衆で芸術家)と交流しています(慶長19年)。これは光悦が作陶していた時期と重なることから、光悦が萩焼作りに関わった可能性が高まりました。その後、李勺光の子である山村新兵衛は、毛利輝元より「作之允(さくのじょう)」に任ぜられます。李敬も初代萩藩主・毛利秀就より「高麗左衛門」に任ぜられます。長州毛利家の藩政を握っていた毛利秀元は、徳川家光の御伽衆(おとぎしゅう)となります(寛永2年)。江戸時代初期にみられる織部様式の萩焼は、秀元の影響とされます。松江重頼著「毛吹草」に長門の名物として萩焼物の記載があり、「萩焼」が世に知られていたことがわかります(寛永15年)。大名茶人でもあった秀元は、徳川家光の命を受け、品川御殿の近くに新亭を設けて大茶会を開き成功させます(寛永17年)。その後、李勺光の子・山村新兵衛の子である平四朗は、「三ノ瀬焼物所惣都合」を命ぜられて弟子を率いて深川三ノ瀬に移住。ここに三ノ瀬焼物所が開窯します(明暦3年)。

【2】萩焼の素材と焼成技術

萩焼の主原土は、白色をした大道土(だいどうつち)であります。山口県埋蔵文化財調査報告書第44集によりますと、萩焼で最も古い時代(江戸時代初期)に焼かれた坂一号窯の発掘調査によると大道土が使用された茶碗が確認されております。この白土は山口県防府市台道や山口市付近から採取される砂礫の多い蛙目粘土であります。そのほか、萩市の日本海の沖合いに浮かぶ見島で採取される鉄分の多い赤土や阿武郡福栄村福川金峰(みたけ)で採取される白色をしたカオリンの一種である金峰土、萩市の窯所周辺で採取される地土が使用されています。萩焼の窯(坂一号窯)は朝鮮式の連房式登り窯で大量生産でき火が走りやすい構造になっており、焼き方により様々な色調が狙えるといったいわゆる窯変(ようへん)が魅力的です。江戸時代初期にみられます傾向としましては、高麗焼の茶碗の写し物が多くみられ、その一方で、坂家に伝わる古萩茶碗「張良」(ちょうりょう)のような芸術的な造形美を観ることも出来ます。実は現在に至るまで、光悦の時代に作られ焼かれた坂一号窯のモノハラは発見されておらず残念ながらこの窯で焼かれた萩焼の詳細は不明です。朝鮮半島出身の陶工たちは、高麗焼の焼成技術を生かし、中性還元焼成でもって焼いておりました。窯炊きは、天候や季節によって影響を受けやすく、また薪の投入のスピードによって窯の中に入る空気の量に違いが生じ、酸化焼成になったり還元焼成になったりします。焼成時間は一日程度で火入れ式には「トウエビス」と呪文を唱え窯炊きの成功を祈ります。

参考文献 萩焼400年展ー伝統と革新(朝日新聞社文化企画局西部企画編集部・発行)


東洋ルネサンス〜日本が世界に誇れる芸術 光悦茶碗
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